<第8回>2009.8.

第一回  クリスマス・オラトリオ (J.S.バッハ) 第七回   W.A.モーツァルトと旅 2
第二回  ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125 第八回   W.A.モーツァルトと旅 3
第三回  新日本フィルハーモニーのハイドン・プロジェクト 第九回   ヘンデルとオラトリオ
第四回  歌曲集「冬の旅」(F.シューベルト) 第十回   モーツァルトと短調の曲
第五回  オペラの演出について 第十一回  モーツァルトと長調の曲
第六回  W.A.モーツァルトと旅 1 第十二回  ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲


〔第1回〕


〔第2回〕


〔第3回〕


〔第4回〕


〔第5回〕


〔第6回〕



〔第7回〕


〔第8回〕


〔第9回〕


〔第10回〕


〔第11回〕


〔第12回〕


〔第13回〕


〔第14回〕


〔第15回〕


〔第16回〕


〔第17回〕


〔第18回〕



〔第19回〕


〔第20回〕


〔第21回〕


〔第22回〕


〔第23回〕


〔第24回〕

       W.A.モーツァルトと旅 3



 モーツァルトの旅も3回目になりますが、ヴィーン定住前に行われた、父と共に行った3回のイタリア旅行と母を同行したマンハイム・パリ旅行について触れてモーツァルトの旅を結ぶことにします。

 3回のイタリア旅行は、モーツアルトが14歳の誕生日を約1ヶ月後にひかえた13歳から17歳までの成長期に行われました。これら3回の旅行は、父レオポルトが息子に本場のイタリアオペラに触れさせオペラ作曲の道を開かせるのが大きな目的としてあった。前回のヴィーンで彼の最初のオペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」は、妨害にあって当地での上演は叶わなかったが、ヴォルフガングが十分にオペラ作曲の実力を備えてきている確信を父は感じとっていた。また、経費節約のため父と二人の旅となった。

 第1回は、17691213日にザルツブルグを出発し、インスブルグ〜ブレンナー峠を越え、1227日にヴェローナに到着。ここで年を越しマントヴァ〜クレモナを経て1月23日に目的地の一つであるミラノに到着。ヴェローナ・マントヴァの時と同様ミラノにおいても劇場に通い当時のイタリアのオペラに接する機会を多く持った。さらに、宮廷

に招かれアリア等を作曲し演奏した。何回かの演奏の機会が与えられ、いずれも好評を得て、オペラ作曲の依頼を受けることとなった。オペラ作曲の契約を交わし、ミラノを発ったのが3月15日であった。ボローニャ〜フィレンツェを経由してローマへと向かう。これらの地では演奏会を通して多くの音楽家・歌手と知り合うこととなる。殊に、フィレンツェでは、ロンドンで歌唱指導を受けたカストラート歌手マンツォーリと再会した。

 4月11日にローマに到着後、早速サン・ピエトロ大聖堂を訪れ、枢機卿と面会する。

ここでは有名なエピソードがある。それは、復活祭の前の3日間だけ演奏される門外不出の秘曲、グレゴリオ。アッレグリ(15821652)のミセレーレについてである。この曲は、システィーナ礼拝堂でこの期間しか聴くことの出来ない曲として知られていた。モーツァルト親子は、ローマに着くとすぐにこの曲を聴きに行った。宿舎に帰ったヴォルフガングは、一度聴いただけのこの曲を楽譜に書いてしまった。この秘曲については、ゲーテやメンデルスゾーンも聴いた感動を故郷に手紙で伝えている程に美しい曲。

 およそ一ヶ月滞在の後、ローマを発ちさらに南下しナポリにやはり一ヶ月ほど滞在し、ナポリ派オペラに接する。再びローマへ立ち寄る。このときローマ教皇クレメンス14世から「黄金の軍騎士勲章」を授けられる。これは、音楽家ではオルランド・ディ・ラッソ(15321594)以来の名誉あるものである。

 帰路ボローニャを経てオペラ上演のためミラノを目指し、1018日にミラノに到着。帰路のボローニャ滞在中の727日に台本と配役表を受け取っていた。「ポントの王ミトリダテ」(Kv.74a)である。作曲は、数多くの困難があった。当時は、歌手の要求を作品に入れなければならかったり、妨害工作も多少あったようである。が幾多の困難を乗り越え、1226日の初演にこぎ着けた。初演は大成功で、聴衆の熱狂ぶりが伝えられている。「ミトリダーテ」成功により、2年後の謝肉祭での新しいオペラノ依頼を受けることとなった。これが第3回イタリア旅行で初演される「ルーチオ・シッラ」である。

 1771328日ザルツブルグに戻り、4ヶ月半の滞在の後、再びミラノへ発つこととなる。女帝マリア・テレージアの息子の婚儀がミラノで催されることになりそのための祝典劇の作曲を依頼されたためである。「アルバのアスカーニョ」(Kv.111)である。1771813日再びザルツブルグを発つ。短い期間であったが作曲は順調に進み10月に婚儀の翌々日に初演され、大成功を収めあと3回も再演された17711215日ザルツブルグに帰ると翌日、大司教シュラッテンバッハが74歳で世を去った。後任の大司教は、モーツァルトの運命に大きな影響を及ぼすヒエロニムス・コロレド卿が選ばれた。その年の1024日、ミラノでの「ルーチオ・シッラ」(Kv.135)初演のためザルツブルグを発った。114日にミラノに到着。1226日の初演の運びとなった。公演は、26回上演され、一応成功と伝えられている。これには複雑な事情も絡んで、結果として大満足とは行かなかった。ここでは、その点については割愛する。1773313日ザルツブルグに帰郷し17779月まで長期にわたり、ザルツブルグを拠点とした活動をする。この間、2ヶ月のヴィーンへの就職活動(失敗する)とミュンヘンからの謝肉祭オペラ「偽りの女庭師」(Kv.196)依頼を受けて上演のためミュンヘン旅行をする。

 3度のイタリア旅行から4年半、ザルツブルグに腰を落ち着けたが、大司教への不満や宮廷楽団・ザルツブルグ辞退への不満が積もって行った。遂に辞職願をコロレド大司教に提出して故郷を飛び出すこととなる。当初は、父レオポルトと連れだってのはずであったが、コロレド大司教は許可せず、母親との旅となる。父と交わした旅の目的は、「きちんとした定職を見つけるか、相応の収入を得られる大都市に行くこと」であった。

 この道矩は、14年前の西方大旅行の前半のルートである。神童の名を轟かせた旅行であった。モーツァルトはもう21歳になっていた。当時の神童のモーツアルトではなく宮廷楽長には、若すぎた。父からの紹介を取り付けて各都市を廻ってゆくが幼少時代の名声と同じという訳には行かなかった。まず、最初の都市ミュンヘンでは、宮廷楽長や司教や貴族を初めバイエルン選定侯との謁見もあったが思うようには行かずミュンヘンを後にする。そして父の故郷アウグスブルグへ向かい、ここでは叔父の一家と楽しく過ごし従妹のマリア・アンナと親しくなりこの後も文通をし、ベーズレ(従妹の愛称)書簡として残されている。そして1030日には、今回の目的地マンハイムに到着した。当時のマンハイム宮廷の文化水準は、ザルツブルグとは比べられないほどに高く、モーツァルトはここでの就職を望んでいたのだが思うようには行かなかった。しかし、マンハイム宮廷楽団から得られた音楽的な収穫は、大変に大きいものがあった、マンハイム楽派の巨匠シュターミッツの弟子Chr.カンナビヒとの交友やクラリネットに魅了されたことなどが収穫であった。しかし、この地で一人のソプラノ歌手と親しくなり恋心を抱いてしまう。アロイジア・ヴェーバーという当時17歳のソプラノである。彼は父への手紙で、「新作オペラを書き、彼女をイタリアに連れて行く」旨を書き送った。驚いたレオポルトは、すぐにマンハイムを去り、パリに向かうよう命じる。仕方なく、ヴォルフガングは恋心を抱いたままマンハイムを去ることとなる。モーツァルト母子がパリに着いたのは、1778年3月23日。レオポルトからも以前世話になったグリム男爵宛に息子をよろしく頼む旨の手紙を送っている。そしてグリム男爵をはじめ多くの宮廷の有力者を訪ね、数多くの演奏会を持つことができた。しかし、職探しはうまく行かなかった。 一つだけヴェルサイユ宮廷礼拝堂オルガン奏者の話があったが年俸の安さや拘束時間など様々の理由で断ってしまう。それに加えてこのパリでは、悲しい出来事が起こる。同行していた母が、長旅の疲れか4月から体調を崩し、6月19日頃から寝込むようになり衰弱していった。終に7月3日この世を去ってしまう。(57歳)遠く離れた異郷の地で同行していた母を亡くしたモーツァルトの悲しみは如何ばかりであったか想像できません。亡くなった3日付けの父レオポルト宛の手紙では、母の死を伝えずに、母が危篤でありあまり望みが亡いことを書いている。さらに同日の友人プリンガー宛の手紙で次のように書き送っている。「・・・最悪のことを初めて耳にしてもあまり悲痛に、過酷に受け取りすぎぬよう、父に勇気を吹き込んでくれたまえ。姉のこともくれぐれもよろしく。すぐに二人を訪ねてくれ。お願いだ。そして母の死んだことは伝えず、その心構えをさせてくれ。・・・」約一週間の後、モーツァルトは父に母の死を手紙で知らせている。しかし、父は最初の手紙から真相を察して、プリンガーもそれを伝えていた。

 このような悲しみの後、父の強い説得の末ザルツブルグへ帰郷することとなる。途中ミュンヘンでアロイジアに再会するが、失恋の痛手を負うこととなる。年を越し、1779年1月15日傷心の内に故郷へ戻った。

 このように、このマンハイム・パリ旅行は、モーツァルトにとって不幸な旅行であったが、青年期に達した天才から多くのすばらしい作品が生まれ出た。特に悲しみの中にあったパリでは、華やかな明るい作品も目立つ。交響曲ニ長調「パリ」(Kv.297, フルートとハープのための協奏曲は長調(Kv.299)。母の死の前後に作曲され、その影を思わせるピアノソナタ イ短調(Kv.310, ヴァイオリンソナタ ホ短調(Kv.304)。アロイジア・ヴェーバーのために作曲したレチタティーヴォとアリア「テッサリアの民よ〜不滅の神々よ、私は求めはしない」(Kv.316)など数多くの名作が、次々と生み出された。良い想い出のなかった旅であったが、成熟したモーツァルトの姿がザルツブルグへと帰ってきた。

ンケン 音楽顧問
伊賀美 哲[いがみ さとる]
 
国立音楽大学声楽科卒業。波多野靖祐、飯山恵己子諸氏に師事。現在、田口宗明氏に師事。指揮法を故櫻井将喜氏に師事。1982年、第7回ウイーン国際夏季音楽ゼミナールでE.ヴェルバ、H.ツァデック両 教授の指導を受ける。1985年フィンランドのルオコラーティ夏季リート講座で、W.モーア、C.カーリー両教授の指導を受け、その後W・モーア教授にウ イーン、東京で指導を受ける。1986年から毎年、リートリサイタルを開催、シューベルトの歌曲集「冬の旅」、「美しい水車小屋の娘」、「白鳥の歌」、 シューマンの歌曲集「詩人の恋」等を歌う。千葉混声合唱団では、ヘンデル「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」「マタイ受難曲」などを指揮する。現在、千葉混声合唱団、かつらぎフィルハーモニー指揮者。