<第七回>2009.7.

第一回  クリスマス・オラトリオ (J.S.バッハ) 第七回   W.A.モーツァルトと旅 2
第二回  ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125 第八回   W.A.モーツァルトと旅 3
第三回  新日本フィルハーモニーのハイドン・プロジェクト 第九回   ヘンデルとオラトリオ
第四回  歌曲集「冬の旅」(F.シューベルト) 第十回   モーツァルトと短調の曲
第五回  オペラの演出について 第十一回  モーツァルトと長調の曲
第六回  W.A.モーツァルトと旅 1 第十二回  ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲


〔第1回〕


〔第2回〕


〔第3回〕


〔第4回〕


〔第5回〕


〔第6回〕



〔第7回〕


〔第8回〕


〔第9回〕


〔第10回〕


〔第11回〕


〔第12回〕


〔第13回〕


〔第14回〕


〔第15回〕


〔第16回〕


〔第17回〕


〔第18回〕



〔第19回〕


〔第20回〕


〔第21回〕


〔第22回〕


〔第23回〕


〔第24回〕

       W.A.モーツァルトと旅 2

 前回第1回ヴィーン旅行までお話しました。今回はその5ヶ月後に出発した3年5ヶ月に及ぶ長期の旅行、所謂「西方旅行」から始めます。

 今回の長旅は一家4人とS.ヴィンターという従僕が同行した5人の旅となった。 最初の訪問地はミュンヘンで、前回と同じく選定侯の前で演奏をした。そして父レオポルトの故郷アウグスブルグに立ち寄り、数回の演奏会をもった。 
 さらにレオポルトが、是非ともヴォルフガングに聴かせたいと思っていた当代屈指のオーケストラを持つマンハイムを訪れる。一行が訪問したのが7月であったので選定侯の夏の居城であるシュヴェツィンゲンに赴き、マンハイム宮廷楽団の演奏を聴きまた一流の演奏家達と共演もした。この後ハイデルベルグを通りフランクフルトで数回の演奏会をもった。
 818の演奏会を、当時14歳のゲーテが聴いている。
そしてボン・ケルンを経てベルギーに入り、今回の旅の最大の目的地と言ってもいいパリに到着したのが
1118日であった。

パリは当時の文化・芸術の中心地であった。そのパリでは、多くの音楽家はじめ著名な知識人・貴族との交流があった。
 それらの橋渡しや紹介をしてくれたのは、フリードリッヒ・フォン・グリムであった。ドイツ人のグリムは、
1749年以来パリで批評家として活躍し貴族や文化人との親交が深かったのでモーツァルト一家を彼らに紹介し、いくつかの演奏会も計画した。中でもヴェルサイユ宮殿では演奏会と国王ルイ15世の宴席なども設けてもらった。
 ヴォルフガングの楽才についてグリムは、彼の主宰する雑誌「文芸通信」に事細かに賛辞を書いている。
 また、レオポルトもザルツブルグのハーゲナウアに当てて宴席の様子も書き送り、ヴォルフガングが王妃のそばでずっとお相手をしてる様子など事細かに報告している。



 ここに登場したハーゲナウアを紹介しておきましょう。ロレンツ・ハーゲナウアはザルツブルグの豪商で、モーツァルトの生家として現在博物館として公開されている、ザルツブルグのゲトライデ・ガッセ(通り)9番地にある有名なの黄色い建物の家主あった。、モーツァルト一家は当時その5階を借りていた。ヴォルフガングを連れたレオポルトの旅の一部始終が、彼の家主のハーゲナウアに報告されていたおかげで、今日幼いモーツァルトの旅の日々をかなり知ることができる。


 さて、一家は5ヶ月ほど滞在したパリを旅立つことになるが、当初はザルツブルグに帰郷ということだったが、周りの強い勧めもありロンドンへと向かうことになった。
ドーヴァー海峡を渡りロンドンに着いたのは
1764423日のことであった。4日後には王宮へ赴き、国王ジョージ3世に謁見し丁重なもてなしを受けた。ロンドンには、レオポルトの思い病気(7月から9月末)などもあり13ヶ月滞在した。
 その間多くの演奏会を開催しヴォルフガングの神童は広く知られることとなった。一方でヴォルフガングがロンドン滞在で得たものは非常に大きかった。
 まず当時その名声がなお高かった
G.F.ヘンデルの作品の多くを聴いたり演奏したこと。(ヘンデルは5年前に世を去った)又、大バッハの末子ヨハン・クリスチャン・バッハ(17351782)と親交を持ち、大いに刺激を受けることとなる。
 
J.Ch.バッハは、1762年にロンドンに渡ってきていて、モーツァルトの才能を高く評価し、モーツァルトも30近く年長のJ.Ch.バッハを深く尊敬してた。
 J.Ch.
バッハの交響曲・オペラ・クラヴィーアやヴァイオリンなどのソナタ等多くの作品から影響を受けた。
 さらに、後のオペラ創作に大きく関わる出会いが、イタリア人カストラート歌手ジョヴァンニ・マンツォーリである。ヴォルフガングは、マンツォーリの歌のレッスンを受けたり、マンツォーリの出演するオペラに頻繁に出かけてオペラ作曲家としての研鑽を積んでいった。 後日第
1回イタリア旅行でマンツォーリに再会し、ミラノでオペラ「アルバのアスカーニョ」の初演で、マンツォーリが主役を歌うことになる。

 13ヶ月に及んだロンドン滞在は、多くのものをモーツァルトに与えた。一家は再び海峡を渡り、1775724日オランダのハーグに向かった。途中レオポルトとヴォルフガングが病気になり到着予定はかなり遅くなり910日にようやくハーグに着いた。
 しかし、またしても姉のナンネルとヴォルフガングが腸チフスにかかり瀕死の状態から奇蹟的に回復し、翌
1月には招待を受けていたヴィレヘレム5世の宮廷で演奏会を開催した。さらに、アムステルダムでも演奏会を持ち再びパリに向かい、510日に着きグリムと再会、2ヶ月の滞在の後スイスを経て3年半ぶりにザルツブルグに帰り着いた。
 この長旅に出立した
74ヶ月のヴォルフガングは、再び故郷の地に戻った時、1010ヶ月に成っていた。長旅の間には重い病気にかかったり、肉体的にも非常に苦しい思いをしたが、幼少の成長期にあったヴォルフガングにとって、音楽的な収穫は計り知れないほどのものと言っていい。
 ザルツブルグ帰着後には、クラヴィーアの協奏曲や宗教作品及びラテン語の音楽劇「アポロとヒアチントゥス」などの作品が作曲された。これらは先の旅の大きな成果と言えよう。


 西方大旅行から10ヶ月も経たないうちに、第2回ヴィーン旅行に出立する。これも14ヶ月と比較的長い旅となった。これはヴィーン到着後、天然痘が流行してヴォルフガングとナンネルが相次いでかかってしまったためである。ヴォルフガングはかなりの重傷で、何日も生死の間をさまよったと言われている。良い治療の結果一命をとりとめた。

 病気回復の後、最初のオペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」(偽りの馬鹿娘)が作曲された。然しこのヴォルフガング最初のオペラは、彼の才能を妬むヴィーンの音楽家達の妨害に遭い、上演されなかった。当時のヴォルフガングの作品を父親が作曲したものではないかという噂を流したりしていて12歳の子供がオペラの作曲などという憶測を生ませてしまったらしい。
 しかし、ヴィーン旅行の後半に孤児院の教会献堂式のために作曲したミサ・ソレムニス「孤児院ミサ曲」ハ短調を演奏した。その他数曲の交響曲が作曲され、いよいよヴォルフガングが音楽家としての道を歩み始めることとなる。

 ザルツブルグに戻って一年も経たぬうちに、今度は父と共に行く3度のイタリア旅行が始まる。これ以降は次回にいたします。

ンケン 音楽顧問
伊賀美 哲[いがみ さとる]
 
国立音楽大学声楽科卒業。波多野靖祐、飯山恵己子諸氏に師事。現在、田口宗明氏に師事。指揮法を故櫻井将喜氏に師事。1982年、第7回ウイーン国際夏季音楽ゼミナールでE.ヴェルバ、H.ツァデック両 教授の指導を受ける。1985年フィンランドのルオコラーティ夏季リート講座で、W.モーア、C.カーリー両教授の指導を受け、その後W・モーア教授にウ イーン、東京で指導を受ける。1986年から毎年、リートリサイタルを開催、シューベルトの歌曲集「冬の旅」、「美しい水車小屋の娘」、「白鳥の歌」、 シューマンの歌曲集「詩人の恋」等を歌う。千葉混声合唱団では、ヘンデル「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」「マタイ受難曲」などを指揮する。現在、千葉混声合唱団、かつらぎフィルハーモニー指揮者。